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上杉斉憲
上杉 斉憲(うえすぎ なりのり、1820年6月20日(文政3年5月10日 (旧暦) 5月10日) - 1889年(明治22年)5月20日)は、江戸時代末期の大名。出羽国米沢藩の第12代藩主。第11代藩主・上杉斉定の子。
幼名は鶴千代。喜平次。官位は従四位上。弾正大弼。権中将。のちに斉定とも名乗っている。
1839年、家督を継いで藩主となる。その後は藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなど、藩政に大きな成功を収め、慶応2年にはこの功績を賞され3万石の加増を受けている。上杉家の領地が増やされるのは実に2世紀半ぶりのことで、秀吉政権時代に越後から会津に加増転封になって以来のことである。この一事が非常な喜びとなったか、かつての名君・上杉鷹山(治憲)に次ぐ名君とまで呼ばれた。開明的な人物で、開国にも積極的だったという。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、当初は斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。しかし、その嘆願を望んで送った書状を新政府に握りつぶされたため、これに怒って仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となり、新政府軍と戦った。米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、慶応4年(1868年)5月に新政府軍の猛攻を受けて敗走する。 その後、旗色が悪くなったため、やむなく新政府軍に降伏した。そして、それまで味方であった会津と庄内に兵を送っている。明治維新後、奥羽越列藩同盟の盟主であったことを咎められて、領地を14万石に削減されてしまった。また、家督を嫡男の茂憲に譲り隠居した。
明治22年(1889年)、70歳で死去。
新政府軍に降伏後、それまで味方であった会津に兵を送ったことから、「裏切り者」と称された。しかし、これは斉憲が米沢藩存続のために選んだギリギリの決断だったと言えるであろう。
(Wikipedia: 上杉斉憲 )


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